講座(4)『修証義』の教え⑭

仏の教え

 前号からのつづき
 【本文解説】
 このような道理に接しながら、理解しようともせず、良き心構えとは、悪しき行いとは、どのようなものかも思慮することなく、己が欲求を満たすためだけに、主義主張を流布喧伝するような者とは、決して親交を深めるべきではありません。
 この原因と結果、そして縁助の道理は、仏が天地自然の現象を禅定の心身をもって、自覚されたものであり、決して恣意的な思想や思惑、哲学等が介在する余地のない、まぎれもない事実であり、真実でもあります。
 世間には、思い道理にならないことが数多あるものです。実直な努力を重ねたからといって、必ずしも本人の望む結果が得られるとは限りません。種々様々な原因と縁が絡み合って生じる結果には、それぞれの努力以外の要素も多く含まれているからです。
 であるからといって、今自分が出来る良き勤めを放り出し、損得でのみ行いを決するのであれば、どのような結果が訪れようとも、誇りや自負心がもたらされることはありません。己の心を欺くような言動こそが、生活を疲弊、堕落させてゆくはじまりであり、また自信と誇りを保って行うべき生活こそが、仏教徒として求むべき仏の教えに即した道、仏道ともいえましょう。
 以上のような道理を示されても、疑義や小智理屈にとらわれる者は、己の精進のみでは限りのある結果であるから適当でよい、自分だけの努力は知れたものであるから、己の好き勝手を優先させよう、などど考えてしまうのです。
 しかし、実際にお釈迦様が、この道理(真実)を自覚され、その教えを多くの仏教徒、ならびに祖師方が信じ敬い、達磨大師が中国へ伝え、さらに遠く日本国にまで、教えが伝わり広がった今日の現状も、理屈や浅智に執着することなく、より良きもの、正しき教えを伝えたいと願う心構えと行いがあったからです。
 「道は致すべくして、求むべからず」とも言われますが、学問上の教えをどんなに理解しようとも、その理論理屈に屈しとらわれ、その者の心構えや、行いがおろそかになるならば、真の仏教の信仰者とも、仏道を歩む者とも言えないのです。
 そこのところを「修証義」は、更にここで念押しして、示しているのです。
 
毎年恒例の永平寺貫主、福山諦法不老閣猊下へ拝問された正安寺卅七世。              
福山諦法禅師ご染筆「福寿」。                                  
本年は、東京麻布の永平寺別院、長谷寺の「授戒会」にご親香される禅師に拝問。