講座(4)『修証義』の教え④

仏の教え

〇生(しょう)を明(あき)らめ死(し)を明らむるは仏家一大事(ぶっけいちだいじ)の因縁(いんねん)なり、生死(しょうじ)の中(なか)に仏(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし、但生死即ち涅槃(ただ、しょうじすなわちねはん)と心得(こころえ)て、生死(しょうじ)として厭(いと)うべきもなく、涅槃(ねはん)として欣ふ(ねごう)べきもなし、是時初めて(このとき、はじめて)生死(しょうじ)をはなるる分(ぶん)あり、唯一大事因縁(ただ、いちだいじいんねん)と究尽(ぐうじん)すべし。

 【本文解説】
 仏教の開祖であるお釈迦様は、この世の中を評して「娑婆」(しゃば)と申されました。現代語に訳しますと、堪え忍ぶべき場所、という内容に近いと思われます。
 私達は普段、「生」の文字からは出産等の祝事を思い浮かべ、反対に弔事の代表的文字を問われれば「死」を連想するであろうと思われます。
 すなわち、ここに説かれる「生」は、生のみにあらず、前途洋々たる人生の希望や楽しみ、歓喜をもあらわし、「死」は私達の力量では思うままにならない代表として、同じ人生の中でも、望み叶わぬ悲しみや苦しみ、絶望や悲哀を表しているとも考えられます。
 仏教で「生死」(しょうじ)という時には、たんなる生まれた、死んだというような意味では無く、私達誰にでも訪れる苦楽に満ちた、あるいは苦楽相半ばする人間が一生、人生そのもののことを示しているのです。
 二千五百年前の方々もどうやら、現代の私達と変わらずこの世の中を、嬉しく楽しいことばかりではなく、身心ともに様々な労苦やしがらみ、障がいや不満等を堪え忍びながら、つきあわねば互いにままならない世界と、考えていたようです。         次回につづく
                             
霧の中の正安寺。