講座(3)『摩訶般若波羅密多心経』の教え⑪

仏の教え

 〇三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。(三世諸仏は。般若波羅蜜多に依るが故に。阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。)
 【用語解説】
  三世=過去・現在・未来。
  阿耨多羅三藐三菩提=仏の智慧。

 【本文解説】
 ここで『般若心経』は、今まで述べてきたことを、鋭くも端的にまとめています。「三世諸仏」とは文言の如く、過去におられた、また現在におられる、未来に現れる諸々のどの仏も、という意味です。
 以前に日本語の大半が、仏教語に関係、あるいは由来としていることを述べましたが、過去・現在・未来を仏語では「三世」(さんぜ)、人が窺い知ることのできる欲界・色界・無色界のことは「三界」(さんがい)、東西南北の四方とその間の四維、いわゆる四方八方に上下を加えて「十方」(じっぽう)といい、三世諸仏と述べる時にはおよそこの「十方三世一切仏」、時間的空間的認識の限りの無い、あらゆる世界におられる仏という意として用いられることがほとんどです。
 曹洞宗僧侶が勤経の節目に唱えられる略三宝(りゃくさんぼう)の第一番目がこの「十方三世一切仏」(じーほーさんしーいーしーふー)であり、二番目が「諸尊菩薩摩訶薩」(しーそんぶーさーもーこーさー)、三番目が「摩訶般若波羅蜜」(もーこーほーじゃーほーろーみー)であり、『摩訶般若波羅蜜多心経』の内容とも非常に重なる部分でもあります。「三宝」(さんぼう)は前述した通り、仏・法・僧のことですから、「十方三世一切仏」を仏、「諸尊菩薩摩訶薩」を僧、「摩訶般若波羅蜜」を法にみたてていることとなります。
 要約するならば、お釈迦様であろうと、弥勒仏であろうと、またあるいは盧舎那仏であろうと、どの仏も皆ひとしく、仏の教えの理解と実践の両方を大事とすることによって心の平穏を得られたとして、教えの理屈や、あるいは実践のみに偏る執着を戒めているのです。
 「阿耨多羅三藐三菩提」とは梵語の(アヌッタラーサムヤクサンボーディ)の音写語であり、訳語には無上正等正覚、無上正真道、無上正遍知等ありますが、あらゆる偏りを離れた、この上もない仏の境界と言えましょう。
 この項で特に大事とするところは「依般若波羅蜜多故」でしょう。般若波羅蜜多は、前述してきた般若の智慧、六波羅蜜を含んだ波羅蜜多の実践を一如一枚とした文言であり、決して切り離されないことを示しているのです。禅定と智慧、止と観の如くに、たとえ仏が説かれる教えでありまた、実践であっても殊更に執着することを注意されるのです。
 さて、仏教あるいは曹洞宗で説かれる仏の定義ですが、人が仏になるとは正式には説きません。強いて言うならば、人が人としての勤めの中に励み生きる姿を「仏」と呼んでいるのです。故に仏教では誰もが仏になることが出来るのであり、お仏壇の前に姿勢を正し心静かにお線香を手向けている時、皆仏様になっているのです。その僅かな一瞬を生活の中に持続していく精進を仏道というのです。ここのところを道元禅師は、先師如浄禅師との邂逅をして、「人に遇うなり」と述べられました。
 仏教は難しいのでは無く、当たり前のことを当たり前に勤めることを、私達に求めているのであり、難しくなるのは、私達の我見や執着心の逞しさが、そうさせているのかもしれません。
                          
                            
境内の景色。