〇度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。(一切の苦厄を度したもう。舎利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず)
【用語解説】
度=渡る・離れる・解放される
苦厄=四苦(しく①~④)八苦(はっく①~⑧)
①生(しょう)
②老(ろう)
③病(びょう)
④死(し)
⑤愛別離苦(あいべつりく)
⑥怨憎会苦(おんぞうえく)
⑦求不得苦(ぐふとっく)
⑧五蘊成苦(ごおんじょうく)
舎利子=舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)
【本文解説】
はじめに、仏教の経典等というと堅苦しい印象をもたれがちですが、実は普段私達が親しんでいる小説のはしりであるとも言えます。
小説にはSF物、推理物、ファンタジー物等、何かしらの教えや気づきを沢山含んだものが数多くあります。古の日本人は、はじめから尊い教えを学ぶために、などと肩に力を入れて臨んだのではなく、どのような内容が含まれているのか、期待を込めながら心躍らせて読まれたものと考えられます。そうして触発された人々の中から、紫式部や清少納言等の書き手が現れたと言っても過言ではないでしょう。
多くの経典では、様々な仏が姿を現しては不可思議な現象を示したり、また一瞬では気づけないような示唆に富んだ問いかけをしたり、時間と空間の概念を飛び越えたり、未だ日本では知られなかった珍品等があふれ出てきたり、また、美味な飲み物が雨となって降ってきたりと想像を絶し、正誤の判断さえつきかねる内容に驚きながらも、心揺さぶられたと考えられます。
『般若心経』の場合は大般若経六百巻の要約書的意味合いもあって、物語性よりも理論的側面が内容を圧倒していますが、それでもお釈迦様が十大弟子の一人で、智慧第一と称されていた舎利弗尊者に向かって、教えを説いているという情景を設定しています。
ゆえに「舎利子」とは、「舎利弗尊者よ」というお釈迦様の呼びかけの言葉となります。「度一切苦厄」とは、観音様が前述のように、六波羅蜜の遂行によって現実社会を智慧の眼で理解し、一切の惑迷、苦しみから解放されたことを示しています。
ちなみに私達が普段身近に感じる苦しみを、仏教では「四苦八苦」(しくはっく)と分類し、生・老・病・死とともに、愛する者との別れ、憎悪する者との交渉、欲しても手に入らない、様々な起因から生じる等の苦しみを加えて八苦としています。
お釈迦様は、この現実世界を仏語で「娑婆」(しゃば)と申され、堪えて忍ぶ場所であると説かれました。ですからこれら「四苦八苦」の苦しみにも、自己を見失わない心を育むべく、精進をするのが、仏教の説くところであるとも言えましょう。
「色不異空」の色とは、五蘊の中の色をあらわし、この世の中のあらゆる物質や現象が、「空」であり、それ自体に固有の実態が存在しているのではなく、諸々の縁と起因するところによって、常に変化し移り変わっている事実を示しています。このことを別の仏語では「諸行無常」(しょぎょうむじょう)、諸々の現象は常に変化し、不変たるものは存在しない、としています。
「空不異色」とは、諸々の存在や現象が本来「空」であり、固定された実体ではない無自性(むじしょう)だからこそ、反対に様々な形や現象、変化を生み出す可能性に満ちていることを示し、別の仏語では「諸法無我」(しょほうむが)、諸々の存在や現象、法則には本来、我としての固定観念や個として単体のみで存在し得る自性はない、と説かれています。
だからこそ人の考えも同様に、経験や年齢とともに変化してゆくことができるのです。努力の結果、報われることもあれば、怠って窮地に佇むこともあるわけです。
今一時の考えに固執して、他の考え方は全く受け付けないというような料簡では、他との軋轢を招くだけでなく、自らの成長まで否定することになりかねません。
講座(3)『摩訶般若波羅密多心経』の教え③
仏の教え