講座(5)『正法眼蔵』「現成公案」の巻の考察③

仏の教え

 「仏の教え」の講座(5)『正法眼蔵』「現成公案」の巻の考察を、この「おしらせ」欄にて定期的に考察していくにあたり、 前回でも記させて頂きました通り、住職のお勤めの余暇の範囲での考察であること、多分に個人の直感的閃きを主として書き留め、住職自身の備忘録代わりに仮校正した内容にて、専門的研究の対象としては参考にならないこと申し上げ、今回で③回目の考察をさせていただきます。
『正法眼蔵』「現成公案」巻の考察曹洞宗寶壽山正安寺卅七世住職 塚田雅俊


  本論

第一章 「現成公案」巻の概要

 本文は河村孝道先生、角田泰隆両先生編纂と校註である『本山版訂補 正法眼蔵』を底本として、西有穆山禅師の提唱録でもある『正法眼蔵啓迪』を参考に十四段に分け、語注に関しては特に記述の無いものは『東京書籍 中村元著 仏教語大辞典 縮刷版』を参照、その内容に関しては「啓迪」を参考として、どのような意味で使用されているか、推測を交えて記した。
 「現成公案」巻は、様々な意味で特別なものと言える。まず七十五巻本の第一巻としての存在。
 そして近世の眼蔵家といわれる方々が、内々に「弁」「現」「仏」と称し伝えられた、『正法眼蔵』を注釈するに際、その核として理解しておきたい巻、「辨道話」「現成公案」「仏性」の三巻にも含まれていることである。
 特に七十五巻本の第一巻としての意義、その解釈は際限なく広がる可能性もある。他の二巻とも比較すれば「辨道話」が捨遺から、「仏性」が六十巻本の第三巻から選択されており、十二巻本からのものは無い。
 あまりに通俗的すぎるとも思われるが、近代発見される十二巻本をして永平道元禅師の真意であるとか、実践的書であるとも言われてきた特異な異本からの選択はなく、思想的または公案を読み解くがごとき世界観を表する内容を中心にして選ばれた感を受ける。
 ただしこの三つの巻からして、単なる思想的な巻とも思えず、机上に置くのがはばかれるほど、『正法眼蔵』各巻中でも特に難解なものであることは、間違いないであろう。
 さて、まずは「現成公案」の巻題を上記の経緯も意識し、どのような捉え方が可能かを探ってみた。
 七十五巻本の第一であることを重要視すれば、まさに宗門の面目である「只管打坐」、または禅そのものと解釈すべきかもしれない。
 公案の文字を一般的な辞典解釈に求めるならば、まず「公府の案牘」と訳されるであろう。これは中国において古くから役所の調書、裁判、判例等の記録が、おもに唐代になって通称とされた文言であり、その意味から転ずるならば公の規則と、それに反した場合の罰則との意になる。
 更に禅宗において「公案」の意味を示す場合には挙則公案、即ち師が弟子に接化し、現時点での力量を把握するに用いる禅問答の意味ともなる。
 上記出典元にも記したが、同じく唐代末の睦州道蹤が、参問者に答えて「現成公案、尓に三十棒を放す」と言ったことに由来し、後に師が弟子を試し評価する禅語やそこでの状況そのものの意になったとしている。
ただし、ここではあくまで「現成公案」を一つの意味として捉え、急ぎ今、自身が決した判断、いわゆる即決裁判としての意味で用いていることが理解出来る。
 訳するならば、本来そのような質問の出来には、三十棒を与えるところだが、即決裁判(現判断)としてそれは放(ゆる)してやろう、との内容である。これには唐の通称であった文言「公府の案牘」が、唐末の禅僧の学人の問題意識を評する文言として「現成」、今すぐ、早速、即決の意とともに加わり、成立したと考えられる。この場合には実際の使用上の意味を無理に拗らせる必要もないであろう。
 「公府の案牘」と即決即断、実に単純ではあるが、素直に捉えるならば即決現在が公案(禅問答や祖師の行い)である、との意にも取れよう。


第二章 「現成公案」巻 各段解説

第一段
本文
 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸佛あり、衆生あり。

語注
・諸法...個体を構成する諸要素、ありとあらゆるもの。あらゆる物事。すべてのもの。諸事象。現象しているもの。もろもろの存在するもの。もろもろの物体。
・仏法...①仏のさとった真理(法)。目覚めた人の理法、教法。仏の説きたもう法。仏の教え。仏教のもとづく根本。
    ②仏のもろもろの美徳。仏のすぐれた徳。仏のすがたを構成している諸要素。仏の特性。
    ③仏になる材料。さとりの資料。六度。
    ④寺院や僧侶をいう。
・時節...①時間。
    ②適当な機会。
    ③季節
    ④時代
    ⑤『正法眼蔵』では、時節は、同時に存在である。
・迷悟...①迷いとさとり。
    ②さとること。「教には即ち頓漸なきも、迷悟に遅速あり」〈『六祖壇経』〉
・修行...①実践すること。行うこと。
    ②努力すること。
    ③難行
    ④ヨーガにいそしむこと。またその人。→如実修行。
    ⑤持戒のこと。
・生......①生ずること。生起すること。
     (一)...が生ずる〈自動詞〉
     (二)...を生ずる〈他動詞〉
    ②集まって生ずる。もろもろの要素が集合して現れること。
    ③生ずるもの。生産者。
    ④未来に生ずべき、定んで生ずべき、の意。
    ⑤生ぜる、の意。生まれたこと。
    ⑥なま。熟の対。
    ⑦有情が生まれること。
    ⑧出生。生まれ出ること。誕生。十二因縁の第十一支。
    ⑨生まれるしかた。子宮を意味する。『倶舎論』ではこの場合、種・生まれ方を意味する。仏教の分類による四つの生まれ方(四生)の「生」がこれである。(中略)
    ⑩死に対していう。
    ⑪輪廻の生存。生きること。
    ⑫生きもの。
    ⑬人間の機官が成立していること。感官の生ずること。
    ⑭順生業。「造レ生」
    ⑮四有為相の一つ。または三有為相の一つ。生を成立させる原理。
    ⑯十六行相の一つ。
    ⑰(観念の)創造。(相と有との二種類がある。)
    ⑱誤った非難。
・死......①死ぬこと。
    ②死人。
    ③死神。
    ④死すべきもの。人間。
    ⑤死によって不律儀を捨てること。

  解説:ゴータマ・ブッダは、人間は死ぬべきものであることを明らかにし、「一切の生きとし生けるものは、死すべき存在である。死を終わりとするもの、死を超ええないものである」、と述べている。説一切有部の教学では、寿(生命)と煖(体温)と識(精神作用)の三つが体から離れることが死であると考えられた。死の不安から解放されるための修行としては、念死ということが重んぜられていた。念死はシナ・日本の禅宗の修行に活用され、ことに武士はつねに死と対決するので、死と禅とを結びつけて考えた。東洋人は、死に徹することを通して人生を積極的に生きるという人生観を共通してもっていたとみられる。

・諸仏...①もろもろの仏。原語は普通、sbuddha(❘)hである。
    ②最高の真理を知覚、理解する人びと。
・衆生...南部では「しゅしょう」とよみ、北嶺では「しゅじょう」とよんだが、今日では法隆寺でも「しゅじょう」とよむ。真言宗など漢音で読誦するときは「しゅせい」とよむ。

生存する者。いのちあるもの。この世に生をうけたもの。生きもの・生けるもの。
生きているもの。生あるもの。生きとし生けるもの。特に人間。人びと。もろびと。世の人。世間の多くの人びと。衆生には、衆人ともに生ずる意味、衆多の方が仮に和合して生ずる意味、衆多の生死を経る意味などがあるとされる。衆生というのは古い訳語で、玄奘以後の新訳では「有情」という。


実体としての生きもの。
尊敬すべき人びと。特に大乗仏教徒をさしていう場合にはこの意味がある。

    ④ブッダとなりうる要素、本質。
    ⑤仲間たち。

現代語訳
 諸法(四大五蘊、十八界)が仏法である、その時節(とき)、そのままで迷いと悟りがあり、修行があり、生があり死があり、諸仏があり、衆生がある。

本文の出典元
・現成公案:*師、僧の来るを見て云く、「見成公案、汝に放す三十棒」。(『統要集』五、『伝燈録』十二、陳睦州章)
      *睦州和尚、纔(わず)かに僧の門に入り来るを見て便(すなわ)ち云く、「現成公案、放汝三十棒」。(『伝燈録』十九、雲門文偃章)
      *上堂に云く、未だ母胎を出でざるに見成公案、周行七歩、過犯弥天。(『明覚録』一、上堂)
      *師云く、現成公案、一糸毫を隔てず。(『圜悟録』十二、小参)

自主的解釈
 西有禅師をして『啓迪』には「これは一ばんむずかしい、古人も誤ってずいぶん了見違いをしている」とか、「この御巻は開山の皮肉骨髄である。開山御一代の宗乗は、この巻を根本として説かれてある。御一代の仏法はこの一巻で尽きる」とも示される。
 また「懐奘禅師の「七十五帖」にはこの御巻を第一に列ねてある。」として、九十五巻本は「辨道話」を最初とするが、年月次第の配列であり禅の流布、正伝三昧を挙揚せんとした道理ではあるが、開山一代の仏法の根源と見込み示されたのはこの巻である、としている。
 この言に従えば前述した七十五巻本の第一という立場、「現成公案」の内容とも相まってか、相当な重きを置いていた様子が窺える。
 『啓迪』によると、のちの二段、三段とあわせての御文ということであり、後述との対比として考えられるものであろうか。
「開山は十方法界を現成公案と見込まれる」なる語は、この世界の全てが現成公案であり、仏法そのものである、との見方を示しているのであろう。
迷悟、凡聖、生死に修証、いずれも相対的認識によるものであり、一方が存在すればこそ、もう一方も成り立つ関係であり、この自他相互に依拠して認識存在たり得る理(ことわり)そのものを示したとも考えられる。
それでも仏教=無我=空と理解を進めてきた一般的な人々にとっては、仏法なる時節、すなわち仏教=ある、ある、あるでは、なかなか得心しかねる所も残る。
ただし文章の原則は、読み進めていく中で理解が進行し、前述の内容が理解の深度とともに変容する可能性が大であること、また我が本師が言うには「仏法は須く真実でなければならない。故にどんなに不可思議な文言に見えたとしても、訳する場合には真実と成すべく解釈せよ」
なる言葉を思い起こし、順序次第に沿いつつ、真実(現実)から乖離しない解釈を意識し進めていきたい。
                
            
参究書『永平正法眼蔵蒐書大成』