前号の①に続き、「仏の教え」の講座(5)『正法眼蔵』「現成公案」の巻の考察を、この「おしらせ」欄にて、定期的に考察していきたいと思います。 毎回記させて頂きますが、住職のお勤めの余暇の範囲での考察であること等も含め、多分に個人の直感的閃きを書き留め、住職自身の備忘録代わりに仮校正した内容にて、専門的研究の対象としては参考にならないことをはじめに申し上げます。
『正法眼蔵』「現成公案」巻の考察
曹洞宗寶壽山正安寺卅七世住職 塚田雅俊
仏教も江戸時代、道家や儒学、陽明学や朱子学、蘭学や医学が輸入されるたび、自身を見直す契機として、それら他の学問的見地からも論理的破綻のないよう、精査してきたはずではあるが、何せこの幕末から明治期にかけての大変革の中で、多くの学問や技術が流入する中、眼蔵家と称される師家も僧侶のみならず、あらゆる分野の碩学達をも前にして、破綻のない解釈を求められることとなる。
この時代にはまた、それまでとは違う他宗派や他宗教、唯識または神学(哲学)まで多分に網羅していると窺わせるような提唱者が現れ続くのである。この時代からはじまる眼蔵家の系譜にも目を留めていてほしい。
更に復古運動はこれにとどまらず、第三期として嗣法の問題のみに留まらず、学術的な見地からの進展も盛んとなる。
その中心人物となるのが面山瑞方と天桂伝尊の二師である。
嗣法や面授等、儀式的側面として見られていた宗統復古運動から、それらを含め学術的に整合性を求めながら、「正法眼蔵」自身の研鑽も進むこととなる第三期を、宗学復古運動と称する研究者もいるらしい。
さて、そもそも仏教界に長きにわたる、様々な弊害が見られるようになったとはいえ、この時代に突如として儀則や学術参究の機運が高まったのは、多分に江戸幕府の政治的配慮もあるといえよう。
後に過去帳と呼称される宗門人別帳もそうであろうが、仏教界に対し隠然たる力を誇示すべく、そうとは気付かせぬよう初期に発布したものが、仏教界各宗派に対する学問の奨励という呼びかけであったといえよう。
その宗学復古の契機となったのが、宗統復古の中心に位置した卍山道白を、その嗣法観は形式的過ぎるとして、論駁した天桂伝尊からはじまるというのも、奇妙な縁である。
天桂伝尊の特徴を、その功績も含めて示すならばおよそ三点に分けることが出来よう。
第一に、江戸時代最初の正法眼蔵の注釈書である『正法眼蔵弁註』を著したことであろう。しかもその参究は六十五才から志し、八十二才にして完成されたものといわれている。
第二には、弁註の内容にも含まれるのであるが、卍山系の嗣法観である面授嗣法を形式重視と批判し、開仏知見による開悟徹底こそが嗣法であると示し、後に見性嗣法とも称される嗣法観を説いたことである。
第三は、『正法眼蔵』に対する姿勢である。第二の特徴にも通じるとも言えようが、まず彼は当時、永平寺五世義雲禅師の編集とされた六十巻本をこそ依拠するべきものと下し、さらに内容に自らの解釈と齟齬の生じる部分については、削除や書き換えさえ指示したとされる点である。
このようなことから、その行動を評して天桂地獄または地獄悟りと称され、異端視されることが多かったが、後年その学識の高さや鋭さには目を見張るものがあり、特に江戸時代最初の『正法眼蔵』の註釈書の完成という偉業からカミソリ天桂という異名も加わるのである。
これらの論争や『正法眼蔵』の参究を通じて、異本の再発見や注釈書等が多数開版されるのである。
それらが今日私達、あるいは眼蔵家と称せられる方々が本文解釈の参考として大いに用いられる、天桂伝尊による「正法眼蔵弁註」や父幼老卵の「正法眼蔵那一宝」、面山瑞方の作またその弟子の作とも伝わる「正法眼蔵聞解」、瞎道本光による「正法眼蔵却退一字参」通称「参註」、雑華蔵海による注釈を二段構えとした「正法眼蔵傍註及び私記」、さらに本文内語句の出典録ともいえる面山瑞方の「正法眼蔵渉典録」、その後継ともいえる黄泉無著の「渉典続貂」等である。
これらの功績をもってすれば、天桂伝尊と面山瑞方からはじまる宗学復古からこそ、現在の眼蔵家のルーツである、と言えなくもない。
しかし異本の発見や蒐集に目を移した時、次段の進展を迎えるのは近世に至る「大正新修大蔵経」内に納められる「正法眼蔵」まで待たねばならない。
これは眼蔵家としても名高い岸澤惟安老師が、永平正法眼蔵から泉福寺本や梵清本、瑠璃光寺本や卍山本、天桂本、指月本、面山本、雑海本までを蒐集比較し、精密な校訂の元で異文をも採録したもので、本山版正法眼蔵が流布されて久しい当時、既に一定の異本研究の成果を得たと一線を退いていた研究者達を驚嘆させ、本山版をも遥かに凌駕する性質のものとなった。
これが学府たる駒澤大学に刺激を与えたわけではあるまいが、その後の「正法眼蔵」異本の対照研究が大きな成果をみるのが、衛藤即応先生による岩波版正法眼蔵であり、岸澤老師を更に上回る蒐集校合作業をへて大成されるのである。
この両師に加えて更に、令和元年八月付にて、大法輪閣から発刊された本山版訂補正法眼蔵が河村孝道先生、角田泰隆先生によって綿密な編纂と校註をもって完成をみたのである。
これら「正法眼蔵」における、異本の蒐集のみならず対照と校註、編纂を重ね完成を見た例は極めて少なく、またこの系譜には学術的な「正法眼蔵」の注釈書ともよべる書物の発刊の歴史とも重なり、駒澤大学教授でもあった神保如天先生、また同じく駒澤大学教授であり秋野孝道老師にも参道された安藤文英先生の共著とする『正法眼蔵註解全書』、また六十巻本を定本とし幕末から明治期に東奔西走された西有穆山禅師の提唱録の現存半数を、富山祖英師が聞書、榑林皓堂先生が編纂したとされる『正法眼蔵啓迪』、その西有禅師に得度を受け、高弟であった丘宗潭老師にも師事された岸沢惟安老師が、九十五巻を網羅した提唱録が『正法眼蔵全講』である。
先に述べた明治三十八年再会される永平寺の眼蔵会、その初代の講師でもある丘宗潭老師には、その後の曹洞宗門を牽引する門下、丘球学老師、澤木興道老師、橋本惠光老師、原田祖岳老師が参集することとなる。
また、その丘宗潭老師が開創した京都安泰寺を後に住持するのが、岸沢惟安老師や岩波版正法眼蔵を著した衛藤即応先生でもある。
幕末から近代に至る、このような異本の蒐集や編纂の実績、また実際の眼蔵会をして丘宗潭老師より再開されていることに重きを置くならば、眼蔵家のはじまりを丘宗潭老師の先師、西有穆山禅師とすることも不可能ではなくなる。
『正法眼蔵』の中でも特に解釈するには、参究参学が余程進んだ者でなければ不可能、とまでいわれる「現成公案」を眼前にし、既に力不足を痛感しながらも、何処まで近づけるのか、志してみたいと発願したものである。
たとえこの書物が成果を得られずとも、何気なく記された視点が、後の参究者に寄与出来る可能性が、僅かでもあるならば、と思慮して記すものである。
今般「眼蔵家」、と呼称される本格的な注釈者、その継承者となり得る資質等は、歴史上どの時点をはじまりとするのか、あるいは時代の節目に現れる寵児をして、たまたまそのように呼称したのか、序論としては文章も長くなったが、あらゆる事象は歴史的な事柄とも関係し、観察者の依って立つ角度によって変化、更なる疑問や追求をも生じさせることを述べたものでもある。
講座(5)『正法眼蔵』「現成公案」の巻の考察②
仏の教え


