聖徳太子が定められた、日本初の成文法ともいわれる十七条の憲法、よく知られている第一条「和をもって貴しとなす」の次、第二条こそが「篤く三宝を敬え」になります。
俗に「仏(ぶっ)・法(ぽう)・僧(そう)の三宝(さんぼう)」と称されるように、自然の摂理を曲解せず、理に適った生活を薦められた仏様とその教えである法、そしてその教えを支えとして、共に前向きな生活を志す仲間僧伽(サンガ)が三宝となります。
仏(ほとけ)の由来は、はじめ正しい教えに目覚めた意の「仏陀(ブッダ)」にはじまり、やがて中国にて音に対する当て字として「浮図(フト)」、さらに日本では、尋常ならざるもののけの能力に喩えられ「浮図+化(フトケ)」の呼称から、変化し仏(ほとけ)になったともいわれています。
法(ほう)についての仏教的解釈ですが、「仏教はそれぞれ個々の思想や哲学、思量分別ではない」と説かれるがごとく、天地自然の摂理と乖離せず、道理に適った見方や生活を目指す教えです。法の文字は、水が髙きから低きに流れる事実を示すが如く、ありのまま当然の摂理であり、これを「万有引力の法則」とも申します。
眼前で繰り広げられる当然の摂理に、慣れ親しんだ私達は、その景色や道理が当然すぎるが故に、その尊さ、有り難さに気付き難くなるのかもしれません。
僧(そう)の文字は僧侶を想起されがちですが、ここでは僧伽(サンガ)を意味します。志が同じ者達であっても、共同作業を繰り返していると、甘えや妬みの心も生じます。しかし同時に「大衆の威神力(だいしゅうのいじんりき)」の如く、己一人では耐え為せなかったことも、皆と力を合わせ打ち勝って、想像以上の結果を為し得ることもあるのです。
実はこの僧宝(そうぼう)こそが、十七条の憲法の第一条に通じる教えでもあります。和とは、平和だけでなく、調和であり親和でもあり大和の国たる日本国そのものでもあります。人は己自身に自信や余裕があってこそ、初めて他にも目が向けられるものです。
その意味では、戦後以降の行政や教育は総じて、国民の自尊心や自ら考えるという思考能力を奪い続けてきた感があります。教育者の善悪や陰謀論の類いとも違い、日本国の中に国民を情報に疎(うと)く、現況の日本国の国際的立場を知る機会を極力減らそうとしてきた勢力の意図を私自身が感じます。
平和、人権、環境等は言うまでもなく大切です。しかし、その中身が自ら実行するために考えた内容ではなく、当てがわれたものならば、いったい誰の為の名目でしょうか。確かに自ら実行する目的で思考したものでなければ、そもそもお題目として喧伝するのみで、国民がすすんで実行したがらなくなることも当然です。
過日ウクライナでの戦争が1000日を超え、民間人の死者数が少なくとも1万2千人以上との報道もありました。戦争の悲惨さ、またそこで暮らす方々の現実や悲劇を伝えることは、確かに重要なことです。但しそこで思考を止めず、自らの足元へ広げた時、平和の定義や捉え方が決して、一つに限らない事も思虑出来るはずです。
少子高齢化の真っ只中、現在の日本でさえ未だに、自死による死者が年間2万1千人を超えています。この報道される戦火の被害者数以上の国民が、每年自死を選択する社会を、戦争が無いから平和な国だなどと、言いきれる人はいないと思われます。
仏教徒は、仏・法・僧あるいは、平和・人権・環境についても自ら実行すべく思考を繰り返し、それぞれが道理に適った選択をして、自負心と同時にゆとりある心構えで、社会の礎としての覚悟ある生活を目指すのです。
講座(5)仏教用語解説【三宝(さんぼう)】
仏の教え