①正見(しょうけん)とは、この社会や人生の根本となる道理を、正しく知るということでもあります。この道理の理解が進まない時には、仏の教えを信じ遵うことも大切で、これを正信(しょうしん)ともいいます。無知・独断・憶測から起こる邪見は恐ろしいものです。正しく見解を持つことは一切の根本となります。
②正思惟(しょうしい)とは、その時代時節の日常における善悪是非を思慮し、誤りの無いよう判断することを意味します。煩悩に惑わされない強い意志を根本とする正しい判断が、自己の行いの是非を決するためです。
③正語(しょうご)とは、自らより発せられる言葉には、その心も現れ出ていることを知り、うそ・いつわり・むだぐち・悪口などを避けて、偏りのない言葉を用いることを意味します。
④正業(しょうごう)の業とは人々の行いのことで、自らが前向きになれる社会の実現のためには、自らもまた社会に悪癖を生じさせないことの大事を知り、むやみな殺生や略奪、他の伴に執着するなどの行為を御することをいいます。
⑤正命(しょうみょう)とは、己が命を命たらしめる生活態度のことを示し、なるべく規則正しい生活を心がけるよう求めています。生活とは毎日、たえず繰り返すものですから、時には工夫や清新さも必要となります。自らの生活に応じた工夫を設けながら、規則正しい生活を目指すことで、真に自立できる人間となるべき心構えが生ずると説くのです。
⑥正精進(しょうしょうじん)の精進とは、勤(つと)め励(はげ)むことをいうのですが、大切なことは、この努力を悪しきことのために用いるべきではない、ということです。善き行いをして悪しき行いをさける、善行(ぜんぎょう)はいよいよ励み、悪行(あくぎょう)はこれを悔い改め繰り返さないよう心がける。そのために必要となる強い意志や勇気を称して正精進と申しております。
⑦正念(しょうねん)とは、自己を見失わない心がけのことをいいます。我々の社会や周囲で起こる様々な事故事犯には、自らを見失った身勝手な憶測や解釈、執着や考え違い、不注意や油断によるものが多くあります。意識を正しく働かせて、それぞれが自らを見失わないことが、社会を安定させる最も近道でもあります。
⑧正定(しょうじょう)とは、禅定(ぜんじょう)、心を落ち着かせることをいい、一般に知られている坐禅だけでなく、歩いたり座ったりを繰り返す方法もあり、最終的には行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、どのような生活状態のときにも禅の心、とらわれのない落ち着いた心で臨めるよう勤めることが理想でもあります。身心に落ち着きが無く、不安動揺している最中の考えや行いは、怪我や失敗のもとともなります。正しい禅定を修めるごとに、より正しい智慧の眼が生じて、その場に応じ適した判断や処置が、おのずから出来るようになるとしています。ちなみに禅定の定は心の波風を落ち着かせる意を示し、別の仏語では止観(しかん)とも訳されます。止が心の波風を落ち着かせる意を、観は止によって智慧の眼を現じて、かたよりなく物事を観(み)ることができるようになるからとされております。
講座(1) お釈迦様と仏教 ⑧「八正道」(はっしょうどう)
仏の教え