〇光陰は矢よも迅(すみや)かなり、身命は露よりも脆(もろ)し、何(いづ)れの善功方便(ぜんぎょうほうべん)ありてか過ぎにし一日を復(ふたた)び還(かえ)し得たる、徒(いたずら)に百歳生けらんは恨むべき日月なり悲しむべき形骸(けいがい)なり、設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴卑と馳走すとも、其中(そのなか)一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべきなり、此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心(しんじん)自からも愛すべし、自からも敬うべし、我等が行持によりて諸仏の行持見成(けんじょう)し、諸仏の大道通達するなり、然(しか)あれば則ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。
【用語解説】
光陰=時間。
行持=行い保つこと。禅宗では行事ではなく、行持の文字を多く用いる。
方便=方法・用い方。
【本文解説】
この節は文言も多く、著者が力を注ぎしたためている様子がうかがえます。比較してみると理論、体系面よりもその心構えや実修の順列等に文字を費やしていることも、特徴の一つといえましょう。
中国天台教学を一代にて大凡集大成された、天台智者大師智顗(ちぎ)の著述に通じるものがあります。
内容に移りますと、私達互いの命が、この広大な宇宙の中で地球上に人間として、しかも日本の国土の現在に生まれ、仏の教えに出合えるなどという不思議さ、尊さをよくよく考えてみなければなりません。
しかしながら、私達が生活しているこの時間は瞬く間に過ぎ去り、やがては授かった生命の尊きながらも、同事にはかなき存在であることを知るのです。
どのように巧みな手段を講じようとも、過ぎ去りし日々は元に戻ることはありません。その我が身一生を無為に過ごすならば、たとえ他に比して長く生きたとしても、日々を重ねた肉体と、仏の教えや道理を追求しなかった後悔の念を残すこととなりましょう。
ただし現在まで仏の教えを意識することもなく、己が望みのみを優先させた生活に浸ってきたとしても、今日この時に仏心を発して、仏道に適った生き方に励むならば、その一瞬こそが、己が尊重すべき一生に通ずる、尊重すべき一日となるのです。
仏の教えに触れ、理解し、勤めたいと願う一日は、尊ぶべき一日であり、またそのように願い勤める自身もまた、敬い愛すべき対象となるのです。
初心の志は立派であっても、諸事情も重なり、怠惰な生活を続けることによって人は、自身に対する自信や誇りを見失い、惰性的な生活に埋没してしまうこともあります。
たとえ僅かであっても、出合えた仏の教えに適う生活を志し、尊ぶべき日々を過ごすことこそが、役職や立場、環境や地域を超えて、それぞれの自尊心有る生き方へと導くのです。
そのように心掛けた私達の一瞬一瞬が、周囲の人々の一日一日に影響を与え、仏の月日に通ずべき生活ともなるのです。したがって私達の日々の勤めが道理に適ったものであるならば、それは仏の願うところであり、仏自らが行うにところ、そのものにも通ずることとなるのです。
講座(4)『修証義』の教え㊽
仏の教え