講座(4)『修証義』の教え㊷

仏の教え

 〇同事(どうじ)というは不違(ふい)なり、自にも不違なり、他にも不違なり、譬えば人間の如来は人間に同(どう)ぜるが如し、他をして自に同ぜしめて後に自をして他に同ぜしむる道理あるべし、自他は時に随(したご)うて無窮(むきゅう)なり海の水を辞(じ)せざるは同事なり、是故(このゆえ)に能(よ)く水聚(あつ)まりて海となるなり。

【本文解説】 「同事」とは、自身に二心(ふたごころ)等抱き違(たが)うことなく、仏事(ぶつじ)に邁進することを申します。自身のみならず他の心にも違わず、ちょうどお釈迦様が人としての面目(めんもく)を了じて、真に人となられ仏と称されながら、われら衆生と生活を共にされながらなお、衆生にも違わず、仏としての立場も見失うことなく、同じくして仏道(ぶつどう)に邁進されたことと同じです。
 他をして己が深い仏の境涯に包み込み、自をして他の心中(しんちゅう)にも分け隔てることなく沁(し)み入(い)る、その時こそ互いの信頼関係を基として、同じく目指すべき仏道(ぶつどう)が現成(げんじょう)するのです。
 互いが仏の教えのもと「同事」を勤めている時には、何処までが自分で、どこまでが他人かなどという、はっきりした境(さかい)も払拭(ふっしょく)され、取り払われてしまうのです。
 海に河の流れが注ぎ込み、海水と淡水が互いを隔てずして混じり合うように、どちらもことさらに互いの領分を主張するわけでもなく、水のとしての道を同じく全うするのです。
正安寺にて毎年、五月三日「大般若祈祷法会」の際に配られる箱入り祈祷札。正面には透明プラスチック板(取り外し可)を設け、一年間立て掛けてお祀りできるよう工夫されている。