講座(1) お釈迦様と仏教 ⑤さとり

仏の教え

 坐禅をはじめてからの王子は、ひたすら自らの心の内を探求しました。浮かんでは消えるを繰り返す泡のような善悪の考えや、解決出来たかのような錯覚や、時には永遠に悩み苦しむ己の未来の姿とも相対しました。それら様々な思いに対してことさらに、自らの心が反応執着し、追いかけ続けると迷いが深くなることを理解し始めたある日、近くの村の農夫が歌いながら通り過ぎていきました。

 弦が強けりゃ 強くて切れる
 弦が弱けりゃ 弱くて鳴らぬ
 緩急正しく  調子を合わせ
 手振り足振り リズムに踊れ 

 何気ない村内の作業歌でしたが、ひたすら六年もの間、苦行のみをしてきた王子にとって、心を強く打つものだったのです。これまで多くの苦行を実践してきましたが、それらは身心の苦痛に耐えうる手段とはなっても、修行の最中にも起こる不安や恐怖、焦燥といった精神的な苦悩に対しての、自らの安心(あんじん)の道とはならなかったのです。

 王子は、ここに至って苦行は安心を得る正しい方法ではないことをさとりました。正しき道とは、人生や社会を正しく見るまなこ、つまり大きな智慧(ちえ)をもつことです。それも禅定等から生ずる大きな「智慧の眼」(ちえのまなこ)をもって、正しく偏り無く見つめることで自分自身は勿論のこと他人も含めた、それぞれの人生や生活、もろもろの尊さに気づきながら、たとえわずかでも日々の勤めに報恩(ほうおん)の心を含めて励むときこそ、真の意味で心の安らぐ世界が現れるとさとられました。お釈迦様三十五才の十二月八日のことです。 この時のお釈迦様のさとりの内容を「中道」(ちゅうどう)と申しております。中道とは真ん中の道ではなく、両極端に心をよせること無く、偏りのない心を保ちながら社会のもろもろの現象を見るべきであるという教えです。この教えからも理解できるように、仏の教えは当然のことを示す教えでもあります。それは、ひとえに我々人間が、当然と思っていることでも、その当たり前のことを当たり前に出来ないからでもあります。ですから仏の教えは、その都度何度でも忘れがちな当然の道理、理(ことわり)を私達に示してくれているのです。
 
 
経蔵(きょうぞう) または輪蔵(りんぞう)とも称され、大蔵経(だいぞうきょう)いわゆる仏教経典全種を納めた宝塔。