仏教用語を解説する際に、用途用法は勿論のこと、その言語自身の意味内容が全く変じているものに出会うことも少なくありません。この「我慢」という言葉は、その典型ともいえましょう。
現在の用法では『辛い日常を我慢する』等、意味としては「忍耐」や「辛抱」する意味が主流でしょう。
ただし仏教的な本来の用途としては、道元禅師が『正法眼蔵』の「仏性」の巻で「汝仏性を見んとおもはば、先づすべからく我慢を除くべし」と、述べられる如く、自身の我に固執し、他を侮(あなど)り自分の考えのみを正解とし、排他的おごり高ぶった感情、高慢の意として用いられて来ました。
つまり仏教では、自らの利を先んずる思考「我欲」と、その価値観を助長させ他を疎(うと)んじる自画自賛「慢心」の関係を評して「我慢」と称し用いたようです。
道元禅師の示されるように、現在では言語の意味内容が全く違いますから、そのまま当てはめて教示することはできませんが、教育現場が寺院であった「寺子屋」の時代の教えならば、仏教の教えの根幹にあたる部分でもありますから、こういう部分からこそ、教育を始めていたと思われます。
現代の教育を評して「強く希(ねが)えば叶うだなんて、子供に嘘はいけませんね」と記された先人がいたそうですが、正しく教育は空想や理想に引きこもる為でなく、現実を生きるために必要とされるものであらねばなりません。
自らの【我慢】を自重して、社会に尽くすと誓ったはずの政治社会に携わる方々の一部が、真っ先に不正を働きまた隠蔽し、国民の眼どころか、他国に遠慮し気を遣うようでは、本末転倒甚だしく、またその悪弊を一蓮托生が如く助長し自らも隠し続けてきた、一部マスコミ等、教育の手本となるべき大人達が、全く信用ならないと思われれば、国の礎が破綻するのは当然です。
特定の職種や人物が弊害というわけではなく、教育者が個性を備えたそれぞれ個人に対して、教え始める地点やその内容を選択する余地のない、現代の一律的教育の仕組みが、限界に近づいたと思わざるを得ません。
それでもSNS等の多岐にわたる情報によって、国民も自ら調べ思慮して示し、述べられる場が設けられ、政治家やマスコミ関係者の中や、また教育者、宗教者の中にも国を憂い、自らの信ずべき意思や筋道を表明し、実際に活動し尽力されている者達がいることが心の支えや救い、目標となって、社会に自らの意思による基盤を築こうとする子供達が、僅かでも増えてくれることを願うところでもあります。
社会の中の【仏教用語】他⑨我慢(がまん)
社会の中の【仏教用語】他