正安寺は江戸時代後期の度重なる火災によって、堂塔伽藍や什物も消失し、その度に規模が縮小されて来た歴史を有する。よって什物の中には本来国宝級にもかかわらず、その一部や大凡を後代に修繕修復した物が多く、法堂(はっとう)の本尊である【聖観世音菩薩】像もその一つである。
鎌倉時代の代表的慶派の仏師、運慶と快慶であるが、近年では人名そのものではなく、工房名と解釈した方が理解しやすいとも言われている。一人物が製作したにしては、その物量が多すぎるというのが現代の見方でもある。
当正安寺の【聖観世音菩薩】像も元来は快慶工房作と伝えられてきた。しかし度重なる火災による損傷の修復にて、各部分の年代変異が、その造形の違いから如実となっている。
おそらく胸元あるいは頸筋から上部は快慶の時代のものと思われるが、その他の部分については大凡が江戸時代の作と見られている。それでも現在厳かな風貌が保たれているのは平成21年、現住職が仏像専門業者に本格的修繕を依頼したからでもあろう。当時も黒く煤けた焼け跡さえ残る体躯は古さは感じさせても、決して厳かな美を感じるものではなかった。
現在本金箔を一枚一枚何重にも貼合わせ、欠けていた金細工も修復した荘厳は、渋く落ち着いた金色に輝いて鎌倉時代の製作時を彷彿とさせる趣をとりもどした感もある。その際に体内より発見された書付には伝承の通り「安阿弥作観音」の文字がしるされていた。
ちなみに様々な姿に変化して衆生済度に励まれる観音様ですが、正安寺の観音様はその変化前の原型のお姿【聖しょう観世音菩薩】様であり、聖観音(しょうかんのん)とも称され、私達の世に迷う音声を聴き、それに応ずるので観世音菩薩と呼ばれている。厳密には般若心経に登場する観自在菩薩も同じ仏様であるが、こちらは仏側の能力の融通無礙なるを訳されたものといえる。
観世音は4世紀半ばから5世紀はじめの経典漢訳家である、鳩摩羅什(くまらじゅう)が訳した旧訳であり、一方の観自在は『大唐西域記』で有名な7世紀前半から後期の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が新訳されたものでもある。
正安寺の仏像【聖観世音菩薩】
正安寺什物