正安寺の発端は延久4年(1072)、荒船山麓の館ヶ沢に端を発し、正安元年(1299)苦水に移り「開創」。 而来この「開創」(正確には再建)時の年号でもある正安元年から「正安寺」と呼称さる。応永年間廃寺同然となるも文亀元年(1501)、古城主内山美作守の助力を得、甲州の総泉院より海秀玄岱禅師を請待、旧跡を取り立て、曹洞宗正安寺を再開創。
天文10年(1542)、当山三世月舟英文禅師代、内山城主となった武田家家臣、小山田備中守の外護を得て堂塔伽藍、ことごとくを現在地に移築。因みに三世月舟英文禅師は城主、小山田備中守昌辰の兄弟とも謂。当山十六世中興大梅法撰禅師(1682)〜(1757)、は当時の禅宗界にあって臨済宗は駿河の国(静岡県)白隠和尚とならび称された曹洞宗の高僧でもある。(平成四年三月三十一日 佐久市教育委員会)
元禄3年(1690)、九才にして当山にて得度後、月舟宗胡・雲山愚白・卍山道白・徳翁良高等に参禅し、上総大空庵の量外頑器に面授の後、大空慈門の法を嗣ぎ正安寺十六代住持就任、後大本山総持寺貫首となる。大梅は記録に残る法孫に五十六員、その他交誼廣く、而来その法孫「大梅門下」「大梅法系」等呼称す。
時下将軍側用人柳沢吉保儒臣、細井廣澤もその一人にして、他荻生徂徠、濱口儀兵衛等の幕臣や経済人にも門戸を開き、朱舜水、東皐心越等とも親交あり。また、黄檗宗万福寺二十四世石窓衍刧、真言律宗開祖慈雲飲光(忍瑞)等が遠来、3年もの間参禅されたことでも知られる。最盛時の寺中、三十余棟、壱百五十名を有する修行道場なるも、寛文十二年(1672)、宝暦六年(1756)、寛政七年(1795)、三度にわたる火災等により境内規模縮小、宝物等皆無に近し。江戸期より常恒会地(恒常的に多 数修行僧が安居する堂場)、大本山総持寺元輪番地(本山禅師排出可寺院)は希少寺でもある。
また正安寺の宗派は曹洞宗(そうとうしゅう)です。中国大陸から、あるいは朝鮮半島等を経由して日本に伝来した仏教ですが、その中で特に禅宗(ぜんしゅう)と称された宗派が江戸期に伝来した黄檗宗(おうばくしゅう)、鎌倉期に伝来した臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗(そうとうしゅう)の禅三宗です。
臨済宗が禅問答に着目され「看話禅」(かんなぜん)と称されるのに対し、曹洞宗はその特質を評して黙照禅(もくしょうぜん)とも言われます。日本曹洞宗開祖、永平寺を開かれた道元禅師が学問をし尽くした先、言語道断の境地を求め只管打坐(しかんたざ)、ただひたすらに打ち坐する意を標榜された所以とも云われております。
また浄土宗、浄土真宗、時宗等、御浄土を説かれる各宗が一般庶民にも理解され浸透し「易行道」(いぎょうどう)と呼ばれるに対し、禅宗は厳しく理解しにくい印象もあってか「聖行道」(しょうぎょうどう)とも呼称されました。
宗派の別はあれども基はみなお釈迦様の教えであり、「仏教は誰が負けても釈迦の恥」なる文言もあるように、決して教えに優劣があるのではなく、人それぞれの立場や環境、好み等により親しみやすい入口から、あるいは厳かな入口から教えの山道を目指すとも、先々には寛厳様々な道(修行)を歴なければ等しく、たどり着けないのが頂でもあります。
因みに「曹洞宗」の宗名は、中国に於いてその禅風を広められた曹渓慧能禅師、洞山良介禅師の頭文字から得られたものとも云われております。御本山は福井県にあります道元禅師の開かれた永平寺(えいへいじ)と現在は神奈川県鶴見にあります総持寺(そうじじ)の二大本山となります。
総持寺様は元来石川県能登の地にあり、道元禅師からは四代目にあたります瑩山禅師が開かれたお寺で、明治期の大火によって鶴見の地に移転され、現在の能登の地には「総持寺祖院」として地方僧堂(修行道場)が置かれています。御本山が二つある宗派は極めて珍しいのですが、曹洞宗では永平寺を厳父に見立て「修行の道場」、総持寺を慈母にたとえて「布教の堂場」ともいい、荷車が二つの車輪によって安定して荷を運ぶになぞらえ大事としております。お仏壇の祀り方としては、ご本尊を仏教を開かれたお釈迦様とし、両大本山を開かれた道元禅師、瑩山禅師をその脇待としてお祀りする一仏両祖(いちぶつりょうそ)の形を推奨しています。当然お題目は南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)と称することとなります。